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航海日誌

「丹田常充実」

2024/05/07

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

表題の丹田とは臍下三寸にありといわれ、臍の下三寸(約10センチ)あたりをさす。全身の精気の集まるところとされ、広辞苑には「ここに力を入れると健康と勇気を得るといわれる。」と記している。「丹田常充実」とは、生きていくうえで丹田が常に充実し、健康と精気で満たされていることが大切であると教えている。平たく言えば、いつも気合が入っていることである。精神を集中してかかる気持ちの勢いがなければ何事もなし得ないことは自明の理であろう。『致知」誌には「丹田常充実は人が事を成す上での土台になるものである」と述べている。

私は「気合が入っている」は誰もが観念的に用いる言葉だが、具体的にどんな時どうすればどのように現れるかわからないのではないか。また、「丹田が常に充実している」とはどういうことなのか。私はそのような理想的な生き方が実現するなら素晴らしいと思う。しかし、人間は四六時中緊張し続けるほど強靭ではない。

それでは具体的にどうすれば「気合が入った」生き方ができるのだろうか。気合は事を成す時に、必要な気力を一点に集中発揮させることである。しかし、それを自分の心にムチ打ち、いくら力んでも無理なことは誰もが経験している。気合とは人間のどこから出てくるのだろうか。

気合は理性や心で考えて得られるのではなく、魂の働きと断言できる。なぜ、心や理性からは気合がつくられず魂のみがそれを可能にしているのか。その主たる原因は、心も理性も自分が生まれてから自らつくったものであり、気合を入れるという力の源泉とはなり得ない。

なぜなら、私たちは生まれて2、3歳頃から言葉を覚え、その言葉と物事を組み合わせることによって考えるようになり、それを蓄積・整理され、理性がつくられた。しかも、それが心の大部分を占めている。したがって心は、言葉の持つ合理的にしか考えない不完全性をまぬがれないといえる。涅槃経の言葉にも「心を主とするなかれ。心の主となれ!」とある。

しかも、私たちが生きる上で大事なことは合理的ではなく、感じることによってしか身に付けられないものが多い。愛・信頼・生きがい・責任等重要なことは、理性で考え言葉で表現するのは困難であると知るだろう。すなわち、これらは心ではなく魂でしか扱えないものであると考えている。

大いなるものに生かされていることを知り、命に感謝する魂主導の生き方には自ずと気合が入り、魂がこもっている。命を懸けた戦争の日々から知った魂の存在、奇跡に充ちた戦後80年の生涯がそれを示して余りある。尊い命を自分らしく生きぬきたい。「奮起を促すや切」である。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘元顧問談(2024年3月)より』

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